街のあかり

lo-tus2007-08-26


主人公はどんどん、どん底に落ちていくのに、ある種の可笑しみを感じてしまうのはなぜでしょうか?理由はいろいろあるけれど、一つにはカウリスマキ映画に出てくる彼らの「顔」ではないかと思うのです。

監督が使う俳優には、好みの「顔」が表れます。例えば、ゴダール映画の冷ややかな眼差しの女性、フェリーニなら謎めいてコケティッシュ。先日書いたデビッド・リンチなら、魔界とつながる妖怪顔の登場人物が次々と。その俳優の顔が、映画の方向性を決定してしまうような強烈な顔があります。
そんな顔の使い方をする名手のうちの一人がフィンランドアキ・カウリスマキ。出演者のほとんどは仏頂面でぶっきらぼう。あの顔で車に乗ったりウォッカを飲んだりデートしたりするんですから、これはどうしても可笑しいでしょ?
カメラワークもストーリーも抑揚のないまま、実に淡々と進行していきます。そもそもカウリスマキの映画は「ムービー」である必要があるんだろうか?と一瞬疑ってみます。スライドショーや紙芝居だって成り立ちそうな気がするし、実際シュールな漫画を見ているような気分になる。でもそれは間違い。多くを語らない映像の中で、深い余韻を残す微妙な動きは、誰も真似の出来ない名人芸の域に達しているし、大袈裟なドラマやアクションはなくても、あの映像の静かなテンポ自体が快感になり、いつの間にか引き込まれています。
そして、顔の存在感。それはヘルシンキという寒い街で春を待つ人の顔。どうしようもない閉塞感の中で暮らす都会人の顔。そして「最悪だけど何とかなるさ」と強がっている顔・・・。

「希望は失ってないのね」
「当たり前さ」
身も心もボロボロになりながら、主人公が言うこんなシンプルなセリフがいい。彼らの顔を見て笑ってしまうのは、絶望の中にほんのちょっと希望が見えるからに違いない。闇の中に一つだけ、ポッと明かりが灯るような。