アメリカの夜

lo-tus2007-10-30


映画が好きな人はたくさん居るけれど、映画に命を賭ける人となるとやはり映画監督でしょう。トリュフォーアメリカの夜」を観て、つくづくそんなことを思いました。
この映画は映画の制作過程を愛憎たっぷりに描いた、映画のための映画です。監督自身が監督役で出ているんだから正真正銘。1本の映画を作る過程でたくさんの俳優やスタッフが織りなす人間模様。わがままな俳優、スタッフ同士の愛憎劇、途中で消える人、亡くなる人、アクシデント、動物タレントの猫ちゃんは“演技”をしてくれないし、予算はひっ迫するし、時間は迫るし・・・、制作現場は火事場の騒ぎ。しかしそんな「万事休す」な状況を何度も乗り切って(時には楽しんでいるようにさえ見える)映画を1本完成させてしまうんだから、監督というのは映画バカにしかできない仕事だな。本当に尊敬に値します。そんな必死の想いで、ようやく一本クランクアップする頃には、みんなにチームワークらしきものが生まれている。完成を喜びあって抱きあってキスするんだけど、もうそれがサヨナラのあいさつなんですね。みんな次の仕事へ散り散りに別れるせつなさ。そこに一期一会的な映画人の美学があって、潔いと思うし、どうして自分は今映画の現場で仕事をしていないんだろうと、軽い嫉妬さえおぼえるほど。映画の現場が世界の縮図のように見えました。
ゴダールは「映画は1秒24コマの死だ」と言い、タルコフスキーは「映画は時間のモザイクだ」と言い、フェリーニは「映画は祭りだ!」と言いました。それぞれの作風を言い得ています。さてトリュフォーにとって映画とは・・・?多分「生活そのもの」、あるいは「別れたくても別れられない一生の伴侶」なんて言いそうな気がする。素晴らしい作品をたくさん撮って、世界中からリスペクトを集めているにも関わらず、決して巨匠ぶらず、生涯「映画好きの少年」的な態度を貫いたところがスゴイです。まったく一生、映画に対する恋が冷めなかったような人・・・。
さて、今の自分を見てみると、そうやって恋するように仕事に打ち込めることってあるだろうか???と思います。いや、無いとは言いませんけど、いつもそんな仕事に恵まれるわけじゃない、残念ながら。
でも遠い記憶を思い起こすと、ずっと昔にそんなこともありました。それこそ学生時代、文化祭の準備で夜中まで自主製作映画を作ったり模擬店の準備をしたり・・・、みんなでガムシャラにやったことを思い出します。そう「アメリカの夜」の熱気は、学園祭の熱気です。トリュフォー監督にはああいう学生並みの純真なパワーを感じます。いろいろあるけど、とにかくみんなで何か一つのことをやり遂げるって、いいものだと再認識。
今世間の学校ではちょうど学園祭シーズン。夜更けにワイワイ、熱気さめやらぬ学生さんたちが下校する姿に出くわすと、なんだか熱い記憶がよみがえってっくるのでした。
念のため「アメリカの夜」とは映画用語で、カメラのレンズに特殊なフィルターをかけて、夜のシーンを昼間に撮ること。トリュフォー監督は生まれながらに、自分の肉眼に「アメリカの夜」を持っていたのかもしれません。