ディランに吹かれて

lo-tus2008-05-14


最近BSでやってた、ボブ・ディランのドキュメンタリー「No Direction Home」おもしろかったです。以前から見たいと思いつつ果たせず、今回ようやく見ることができました。
3時間半近いこの映画を観たからといって、ディランの何が分かるわけでもありません。とういかむしろ、ますますボブ・ディランという男が分からなくなりました。もっともこの映画はマーティン・スコセッシ監督の主観で描かれた、ディランのほんの一面に過ぎないのですが(ほかのあらゆる伝記物と同じように)。しかし「風に吹かれて」と言う通り、ディランは本当に何からも縛られることを嫌う自由人なのだということは、なんとなく分かりました。
映画の中で一番面白かった、とうか滑稽だったのはディランがエレキに持ち替えて、バンドスタイルになった時のファンの反応です。アクースティックギター&ハーモニカでフォークを歌ってた頃は、神様のように持ち上げていたのに、エレキに持ち替えたとたんに「商業主義に走った」とか「裏切り者!」とか、ひどいブーイングを浴びせるところ。この状況、多くの若者が真面目に闘っていた、60年代アメリカの社会情勢も垣間見えるわけですが・・・。
弾き語りでやろうがバンドでやろうが、そのサウンドさえ素晴らしければどっちだっていいじゃないか・・・と僕などは思うわけですが、60年代当時、そういう聴き方は許されなかったのでしょうね。音楽は、サウンドがどうだというよりも、生き方、思想、政治的態度とイコールだった。ディランに、音楽以外のものを過剰に期待した結果だと思います。確かにディランの歌詞にはメッセージソングのようなのがたくさんありますが、本人曰く「自由に詩を書いていただけ」とのこと。聴き手はそれをメッセージと受け取って熱狂したわけで・・・、音楽に詩を乗せることはある意味恐い。
何にも縛られず我が道を行くディランのこと、自分を神格化するようなファンに飽き飽きして、このへんで突き放しておかないとマズイ・・・と思ったんでしょうね。「自分がやっているのはただの音楽さ」・・・まあ、そういう態度がカッコイイです。
僕はあまり英語がわからないので、ディランが何を歌おうと、歌詞カードをを見ない限り、曲を聴いたとき言葉もサウンドの一部としてしか入ってこないのです。だからディランのサウンドは理解してるけど、詩は理解してない・・・この聴き方はどうなんでしょうか?音楽と詩の関係を考え始めると難しいです。
たとえ僕にディランの詩の素晴らしさが今よりもっと分かったとしても、音楽と切り離して詩だけを深読みするのは控えたいと思います。歌詞カードを解釈するよりも、やはりまずは先入観なしでサウンドに身を任せたい。