カーネーションの卵

lo-tus2009-10-26

世の中には、あまり知られていないけれど良いものがたくさんあります。実は日常的にそのへんにゴロゴロしていて、ただ「マス」ではないから知られていないだけ。「商売」に結びつきにくいからメジャーにならないだけ。
昨日見た映画もまさにそれ。京都駅ビルシネマ「姉妹都市の映画祭」でシルヴァーノ・アゴスティ監督「カーネーションの卵」を観てきました。今回の京都が日本初公開で、もちろん自分にとっても、まったくよく分からない映画だったのですが、敢えて何も調べず会場入り(先入観無しで観たかったから)。そもそも「カーネーションの卵」というタイトルが気に入りました。チラシによると「第2次大戦の終わり、混乱期のイタリア北部を子供たちの視点を通して映像化した自伝的作品」とあって、なんとなく良さそうな「臭い」がしたわけです。それから少年の顔がアップになったスチールも、何か眼で訴えてくるものがあったので。
実際に映画を観ると、期待に違わず胸に刺さりました。例えるならベルトリッチの「1900年」とタルコフスキー「鏡」を足したような世界・・・と言えば、観たことのある人なら分かっていただけるでしょうか?
こんなスゴイ人がいたなんて、どうして今まで教えてくれなかったんだろうと、誰かに対してではなく世の中に対して苦情の一つも言いたくなるほど。イタリア映画界の隠し球。いや、幻のアトランティス大陸級の発見か(?)。僕もこうして知ってしまった限り、黙っているのは犯罪に近い行為。勿体ないと思いこうして書き留めているわけなのです。
しかしアゴスティ監督の経歴を読んで見ると、実に映画界で40年以上のキャリアがあるとのこと。イタリアでは知られた存在なのですね。しかも作家、映画館経営者、映画技師、切符切り、放浪の旅人などなど、いろんな顔を持つ自由人。小説は日本でも紹介されているようなのでぜひ読みたくなりました。
今回は本邦初の試みということで諸事情によりDVDによる上映となり、画面の色が少しザラザラして残念でしたが、まあ見せてもらっただけでも◎です。この次はぜひ「フィルム」で堪能したいと思います。そんなふうに思わせる美しさ、また残酷さが同居する映像センスは伝わりましたから。
そんなわけで、映画にしても音楽にしても本にしても、未知のものに出会うのは本当に楽しいし、今自分が知っているものなんて海岸の砂粒程度の微量だと思っています。最近よく「インターネットが世界を狭くした」なんて言いますが、とんでもない。世界はいくら掘っても尽きないなと・・・。